何故、【渥美線】加治駅は消えてしまったのか
昭和初期には運行開始しされていた加治駅。
現在、愛知県豊橋市の駅名「新豊橋」から終点「三河田原」まで
運行されている通称【渥美線】
このブログで分かること
1.加治駅が廃駅になった理由。
①加治駅は、赤字路線だったのです。
②当時の渥美電鉄には計画敷設を実行する
資金力が不足していました。
2.線路が残したものを辿り渥美線元加治駅の場所を探る。
何故、元加治駅が廃駅になったのか。
現在加治駅は、ありません。
昭和19年に黒川原駅とともに休止
昭和29年廃止となりました。
理由
1.加治駅は、赤字路線だったのです。
2.そして、当時の渥美電鉄には計画敷設を実行する
資金力が不足していました。
加治駅があった昭和初期当時
地図上駅付近に民家は、ありますが
乗客数が十分でなく赤字だったと思われます。
また、電車の競争相手として
「日の出自動車」のバス
(当時は、乗合自動車と呼ばれる。)が
豊橋~田原~福江まで直行便を走らせており
渥美電鉄(当時)とは運賃割引などで
激しい競争を繰り広げていました。
単純に考えて
バスは固定経費が安く済み
鉄道のほうが固定経費は掛かったのではと思います。
鉄道利用客が十分見込めれば良いですが
そうではない為、経営も楽ではなかったようです。
ちょっと小話!です。
愛知県最南端の伊良湖岬少し手前、福江まで何故
乗合自動車(バス)が走っていたか?
昭和初期頃、海上輸送路として
伊勢の鳥羽港(鳥羽水族館があります)
~日間賀島港(タコで有名です)~福江港
~蒲郡港(みかんで有名です)
だけでなく、熱田港(尾張・織田信長の領地です)や
亀崎港(半田市)も
愛知・三重の圏内を海上輸送路で繋がっていたのです。
福江~田原各港~豊橋まで、汽船をつかい
海上輸送路として大変賑わっていました。
その為福江までバスが走り人や少しの荷物を
運んでいたわけです。
船は、今も昔も輸送手段の主力です。
中途半端な鉄道網では、船での大量輸送に勝てません。
海上輸送路(海)とバス(陸)いう2つのライバルと
鉄道輸送路未完成による輸送力不足の結果
加治駅は、昭和19年に
黒川原(くろがわはら)駅の休止・のち廃止とともに
其の歴史に駅を廃止する事となります。
線路跡を辿り渥美線元加治駅の場所を探る。
三河田原駅から元加治駅までの距離1.3km。
当初は、黒川原(くろがわはら)駅の事を
調べるつもりで始めたのですが
途中で元加治駅があった事が分かりました。
三河田原駅に設置のモニュメントには、田原駅から黒川原駅
の事しか書いてなかったので
調べて分かったときには驚きました。
田原駅から2.8kmもの長さの区間
途中に駅無いなんて長いなと思ったんです。
新豊橋駅から三河田原駅までの駅間隔は、約1.2km毎駅があるのに
何故か、黒川原までの2.8kmは途中駅ないんだろう?と思っていました。
廃線廃駅となりましたが
加治駅までの元線路は市民の生活道路として
立派に役目を果たしています。
現在の田原駅から田原郵便局方面に向けての線路は
ありませんが
駅前道路をまたいだ先から郵便局付近手前付近まで
元線路跡が、道路で残り続いています。
地域地図で田原駅からのルートを表示(オレンジ色)
現在、写真からルートを撮しました。
田原駅の線路が真っ直ぐに伸びれば
この道に通じるのが分かります。
とても分かりやすいです!
昔の昭和2年~29年の地図をみると
田原駅から加治駅方面は田んぼの中を線路が走り
清谷川まで伸びていました。
①の写真場所、田原駅前道路から加治駅ルートです。
商業施設ララグランの横を通ります。
若干左カーブをして清谷川を目指します。
②の写真、上記①の写真を過ぎるあたりが緩い左カーブの先に
清谷川ガードレールが見えます。
元線路が残され道路となったお陰で分かりやすいです。
③の写真、清谷川ガードレール手前です。
やって来ました清谷川です。
④の写真、清谷川ガードレールに来ました。
何故か?ここだけガードレールが空き
プラスチックの鎖が掛かっています。
元鉄道橋を想像させる為でしょうか?
不明です。
⑤写真、清谷川ガードレールから通ってきた道です。
(逆方向です)。
緩い左カーブと少し勾配があるのが分かります。
田原駅から清谷川までの距離は、約200mです。
昭和2~29年の地図でみると
ここまで昔は田んぼでした。
つまり、大正時代も当たり前ですが、田んぼ!です。
田んぼの中を電車が走るなんて良いですね。
映画で良いからその情景を見たいものです。
⑥の写真、ガードレールのプラスチック鎖から
清谷川を撮ります。
川の中に、現在橋梁は残っていませんが
川面に橋の基礎らしき円形の支柱基礎の痕跡あります。
短い川幅ですが、鉄道橋の補助だったのかもしれません。
地図・道路の位置と照らし合わせると
そう考えて差し支えないでしょう。
⑦写真の場所、清谷川を渡り元加治駅線路方向を撮ります。
ほぼ真っ直ぐに道が伸びています。
この辺りも田んぼでした。
当時は、清谷川を田んぼが挟んだ形で
渥美線が横切るように川を渡り、線路が加治駅まで続いていました。
益々当時を見たくなります。
⑧の写真、過去に法務局が有った付近です。
(逆方向、田原駅方面)を写しました。
地図上の痕跡です。
⑨の写真、郵便局手前で川を渡り
過去にあった法務局の場所あたりから
生活道路を渡ったところの写真です。
当時この場所に、田原駅から線路が敷設されていました。
過去の地図でも確認出来ました。
私は、少々驚いています。
過去の地図と照らし合わせ
現在でも確認出来ます。
実際に足を運んで調べてみるものです。
現在商業施設ララグラン(第三セクター)の
喫茶店・飲食店などがある場所は
フタムラスターチという工場跡地です。
地図で調べようと、田原市図書館の書士さんに聞いたら
昭和初期頃の地図はありません。との返事でした。
残念ながら、図書館に昭和初期の地図は置いてありませんが
「名古屋都市センター」のHPを教えてくれたおかげで
検索する事ができました。
「名古屋都市センター」の昭和2年~29年間の地図には
三河田原駅から加治駅間の線路図が
地図に載っているのを見た時には
発見したぞと
心は小躍りしたい気分で嬉しかったのを覚えてます。
元法務局があった場所付近より、道路を渡ったところの
⑩の写真場所から続く1.8kmの長さに及ぶ
道路があります。
少し幅がせまいですが、ほぼ直線道路があります
(加治駅も通ります)。
現地を見れば驚きます。
⑩の写真、距離計測開始場所。
この辺りから少し小高くなっています。
当時、川の横は田んぼが続いていましたが、この辺りからは
畑に変わる為少し高くなっていると思われます。
⑪の写真、途中少しクランク?のような曲線道路に
わざとしているようです。
道路デザインとしてなのか
出会い頭衝突予防なのかは不明ですが
でも、その線が濃いと思います。
⑫の写真、この付近の道路は真っ直ぐで
現在、右側は住宅地として整備され
多数新しい家が立ち並んでいます。
敷設当時は、右側も畑が続いていたので民家が無く
そのお陰で線路が引けたと思われます。
⑬の写真、この付近から少し勾配がきつくなります。
写真では分かりづらいですが、自転車だと結構足が疲れます。
⑩写真から、⑬写真までの距離400mです。
上記の勾配が少しキツくなるあたりは、加治町の
神明社後方右側あたりになります。
元加治駅に向かい左右に法面がありますので
鉄道工事に際して切り通しが作られた場所と
思われます。
切り通し工事は地図にも載っていました。
ここだけでなく、この先も又元加治駅でも
地図に法面の印が載っていました。
理由は、勾配を緩くするためです。
上記⑬の写真、写真撮影場所で撮った前後左右の写真を見ると
わかりやすいと思います。
⑬写真、加治駅向きを撮りました。上り坂になっています。。
⑬写真、田原駅側(逆方向)から来て急にこの付近から
勾配がキツくなるのが分かるでしょうか?
⑬写真地点での右側道路写真です。
なだらかですが勾配があります。
⑬写真地点での左側。加治町の神明社右側後方の位置です。
道路の勾配が分かるでしょうか。結構急です。
道路の左右にも法面があるので
やはり線路の敷設工事で削ってます。
工事説明図です。
いかがでしょう。
下手な手描きイラストですみません。
道路の左右に法面があるのが分かります。
清谷川から加治町神明社後方の十字路付近までは
全体的に緩やかな勾配ですが
⑬写真地点の十字路直前から結構キツイ勾配になります。
土地を削らなければ電車は
登れなかったということでしょう。
十字路付近から土地を削っても
これだけの勾配があるのです。
郷土資料では
昭和14年に電気機関車が導入されるまでは
客車が貨物車を連結して
黒川原(くろがわはら)駅まで向かったとあります。
土地を削ってもそれだけキツイ勾配だったのでしょう。
勾配を登った先に「浄光寺」というお寺が
右手に見えてきます。
⑭写真、十字路での写真です。
⑩写真場所から⑭写真場所までの距離700mです。
自転車だと結構疲れます。距離を感じますし
坂道あるから余計に大変だなと思います。
⑭写真場所、方角は加治駅向き、まだまだ先は長いです(笑い)。
⑭写真場所の右側、浄光寺が見えます。
⑭写真場所の左側、少し下ってます。
⑭写真地点の場所から逆方向の田原駅を向きます。
ここに来るまでも左右交互に法面があるので削ってます。
清谷川を渡ってからここまで長い距離を感じます。
⑭写真場所からさらに元加治駅に進みます。
右側、民家わずかと左には竹林です。
静かでのどかな雰囲気があります。
まだまだ進みます。地元道を横切り進みます。
ほぼ、畑の中を通ってます。
元加治駅はまだ遠く見えないです。
⑮写真地点ようやく来ました。元加治駅があった場所です。
手書きイラストで表示します。
⑩写真地点から出発し、⑮写真地点まで来ると
全国廃線鉄道文献(廃線関係)には掲載されていない
加治駅がありました。
加治駅あったとされる⑩写真の場所から⑮写真の場所までの距離1,100m。
線路だけでは寂しいので、デホハ1型を
イラストで書き込みました。
デホハ1型について
大正13年から昭和42年まで活躍した車両です。
車体は木製、長さ連結器含め12.5m。
当初は路面電車扱いの為
救護網が前部に付いていました(網焼きみたいです)。
加治駅敷設の為、切り通し工事跡の法面イラストです。
豊橋鉄道株式会社の社章を発見。
法面上部にありました。この場合が関係した
確かな証拠物の杭を確認しました。
元加治駅からは、さらに元黒川原駅に続く線路跡があります。
加治駅の存在は、郷土資料で渥美線の事を調べていたときに
知って驚き、これはブログに載せないといけない。
そのように思い書いてます。
「名古屋都市センター」HP昭和初期の住宅地図
(昭和2年~29年)をみると
確かに載っていました加治駅。
こちらも確実な証拠です。
地元の方にも話を聞き
と言っても一人だけです。
「加治駅があった話は聞いたことがある・・・」と
うろ覚えのようです。
但し、黒川原駅についてはしっかり記憶されていて
まさに日常生活体験談を聞きました。
それは、元黒川原駅編に回します。
現地を調べて見て分かった事で元加治駅の場所は、
小高い丘を切り崩し平らにしてあり、鉄道を通す為に
行った工事と分かります。
丘の上に見えるタンクは
現在使用中農業用のファームポンド施設です。
ある意味、農業用ファームポンドが
元加治駅が存在した「目印」になるかもしれません。
あったとされる場所には現在民家があります。
民家は場合により存在しなくなりますが
ファームポンドはよほどの事がない限り
地形的な理由により変わらないでしょう。
皆さんにも機会があれば、伊良湖岬(海)観光ついでに
ぜひ見ていただきたいと思います。
カーナビさえあれば大丈夫です。
渥美線で三河田原駅まで来て
駅に田原市レンタサイクル(中学生以上無料)が
ありますので観光としても楽しめます。
三河田原駅前にはビジネスホテルもありますので
泊まり観光も十分楽しめます。
元加治駅と元黒川原駅(くろがわはらえき)
を合わせて巡ってみると全てが繋がります。
遭難するような山奥の道ではないので少し寄り道
散策のつもりで楽しめると思います。
鉄ちゃんや道オタク、サイクリングが趣味で
またまだあまり知られていない観光地を開拓したい方など
好奇心旺盛な方々にオススメです。
個人的な感想として
昔の資料を元に証拠探しをするのも
楽しいです。
見つけたときのちょっとした驚きと喜びは
好きな人なら分かってもらえると思います。
元加治駅付近を紹介します。
「元加治駅」の付近は、まばらに住宅があります。
もちろん昔の地図に比べたらかなり増えています。
数キロ先に県立渥美農業高校があります。
ですので元線路で現在生活道路になっている道は
結構渥美農業高校の生徒が自転車で走ります。
元黒川原駅付近までの直線道路は信号無しで
走れるのですから快適です。
田原市は農業が盛んです。
加治町に、JA愛知みなみ農業協同組合の
総合出荷場があります。
国道259号線は、農家さんが農産物の出荷時
入荷物を配送するトラックにも道路が役立ち
なくてはならない物流道路として機能しています。
元線路沿い「浄光寺」の反対側に
旧国道259号線が通っています。
旧国道前に田原警察本署と
横には食料品スーパー「パワーズ」が営業しています。
旧国道259号線の反対側にも薬のスギ薬局
2号店(ドラッグストア)が営業してます。
スギ薬局の1号店が、田原旧国道神戸町にもあります。
田原駅から離れた田舎にしては何故か2店舗もあります。
近隣住民と車での来客が見込めるのでしょう。
時代とともに地域の商業施設状況が
変化するということですね。
まとめ
渥美半島唯一【単線電車渥美線】の
廃線・廃駅「加治駅」を紹介しました。
1.運営に無理があり、赤字が解消できず昭和19年
加治駅は黒川原駅とともに休止後廃止になった事。
2.駅や線路は、忘れ去られる事があっても、地域住民の
生活道路として役立っていること。
渥美農業高校の生徒には便利な道路として存在している事。
以外にも車がよく通ってました。
元加治駅は、廃線・廃駅となる過去はありますが
現在という未来にしっかり繋がり役立っています。
渥美線を利用し、廃線・廃駅を巡る観光は一味違う
楽しさがあると思います。
観光に訪れては如何でしょうか。
最後まで読んで頂いてありがとうございました。